サラリーマンを辞めて、greenzを立ち上げて3年半。
会社をつくって1年半。

その経緯は何度かこのブログでも書いてきたけど、幸いにも、いい仲間や支えてくれる人たちに恵まれて、なんとか順調にここまで来れた。ただ、実際のところ、将来のビジョンがうんぬんかんぬんとかいいながらも、現実は日々の忙しさに追われて、なかなか立ち止まって、そのビジョンの根幹にある、「いまなんでこれをやっているんだっけ?」というような現在を深く見つめて、考えることがなかなか少ない。目の前のことに頭がいっぱいなって、いつの間にか考えないようにしているようなことさえある。だって考えること、自分の心と向き合うことは、ものすごくエネルギーを使うし、時間も使うから、だったらいっそのこと考え始めない方が楽でいられる・・・のかもしれない。

そんなことを悶々と考えていたところ、最近してもらった2つのインタビュー(Tokyo Design Flowi Passion )を通して、人に語ることで、自分の中でいつの間にか忘れてかけていた大切な感覚や失いかけていた原点を思い出した。

私がサラリーマンを辞めたのは、パーマカルチャーという「持続可能なライフスタイルをデザインする」という考え方に出会ったからだ。右から左へ紙きれのようにお金が流れていく資本主義の世界にどっぷり浸かっていた私にとって、「持続可能性」なんて初めて聞く言葉で、もうそれは、いままでの価値観や考え方を完璧にひっくりがえしちゃう、まったく新しい発想で、すべてが新鮮で、私はすっかり魅了されてしまった。そして、自分の将来につながるのは、これかもしれないと直感めいたものを信じて、もっとパーマカルチャーなるものを学びに、実際に体験しに、会社を退職した翌日から、WWOOFERとしてオーストラリアを1ヶ月旅した

まず最初に訪れたのは、クイーンズランド州ブリスベンの郊外にある小さな町、ユードロ。


電気は風力発電、上下水道も通っていなく、100%自給自足のデジャーデン家

そこで、人生観を180%変えてしまう衝撃的な出会いがあった。

私の人生の師匠でもあり、3人の男の子のママでもあり、女性としてもセクシーで魅力的な人。

その人は、デジャーデンゆかりさん

豪州政府認定のパーマカルチャリストとして、日本でパーマカルチャーを学んでいる人で彼女の名前を知らない人はいないぐらい、みんなに愛されているとっても素敵な人だ。


2006年5月。ファビアン(2歳)を抱っこして

それまで野菜も育てたことのないずっと都会暮らしの私にとって、ゆかりさんが教えてくれる土のこと、太陽のこと、自然のこと、人間が自然の中で生きるための摂理と知恵はどんな学問よりも奥深くて面白かった。日の出とともに起きて、ゆかりさんのお庭に散水して、鶏に餌をやり、畑の手入れをして、木を切り、子どもたちを学校に送り迎えして、みんなで食卓を囲んで、夜は満点の星空を眺めながらジャグジーにつかって。ただそれだけの平凡な日々だったけど、自然の中で、自然のリズムで生きる心地よさと幸せを感じられた。何にもないけど、すべてがある贅沢。


デジャーデン家3兄弟。上からステファン(当時11歳)、ジュジュ(当時8歳)、ファビアン(当時2歳)

もし、世界で何かが起きても、私と私の家族、そして近所の友人たちが3ヶ月は生き延びられる食料とエネルギーが我が家にはある

とゆかりさんはよく言っていた。

ゆかりさんの家と周りのガーデン(畑)は、パーマカルチャーまさにそのもので、シンプルで無駄がなく、自然の原理・原則を生かしながら、家や畑のつくり、向き、エネルギーや水の循環、すべてが相互作用し、循環する仕組みをデザインしている。サステナビリティというより、むしろサバイバリティ(生きる知恵)が凝縮された場所だ。


雨水タンクの廃材を利用したガーデン。腰を曲げる必要がない高さになっているため、車椅子のおばあちゃんになっても畑仕事ができるようにデザインしたという。


太陽の温かい熱と光、月や星の光とエネルギー、海からくる心地よい気と風、これらをすべて最大限取り入れるために、家とガーデンはすべて北東向き。


これ、実は巨大な貯水タンクの上!毎朝の歯磨きスポットでした


素っ裸でよく泳いだっけなー。これが最高に気持ちがいいんです。


家のつくりは、クイーンズランドスタイルでユーカリの樹をふんだんにつかった高床式。天井が高くて気持ちのいい風が流れます


朝食はここで。一日の始まりとなる朝ごはんを食べる場所をちょっと素敵にするだけで、幸せな一日が始まる気がする


よく晴れた日には、海が見える

私にとっては、桃源郷のような場所だった。
世界に、こんなにも平和で美しくてあったかい場所があるんだろうかと思った。
人として生きることの根源的な意味、本当の幸せとは何かを考えさせられた旅だった。

そして、このゆかりさんとの出会いをきっかけに、いつか、私もゆかりさんのようになりたい、私のような一人の人間の人生観を変えてしまうぐらいの圧倒的な美しさをもった場所を創りたい、と思うようになった。

その夢をゆかりさんに伝えて、私がやるべきこと、私にできることを語り合って、オーストラリアを去った。それが2006年5月のこと。そして、BeGood Cafeに入って、greenz.jp を立ち上げて、独立して、会社をつくって・・いつかは、ゆかりさんのように、シンプルであたたかい、サステナブルな暮らしをデザインしたいと夢みて。

それから日本に帰国してからも、何か大事な決断や転機が訪れたときは、かならずゆかりさんには連絡をしていた。、ゆかりさんは、まるで自分のことのように毎回喜んでくれて、的確なアドバイスもくれた。遠く離れているのに、まるで隣にいるかのように、ゆかりさんには全てお見通しで、それでも優しく聞いて、ゆっくり語りかけてくれているかのようだった。ゆかりさんの発する言葉や、ゆかりさんがもつ雰囲気、エネルギー全てが私の心にいつまでも温かく残っていた。

それが、1年くらい前から、ゆかりさんのことはやっぱりずっと頭の中にあったのに、連絡をできないでいる自分がいた。忙しさにかまけて、ゆかりさんと約束したことを少しもカタチにできていない自分が恥ずかしくて、何も伝えることがなくて、連絡ができなかった。たぶん、ゆかりさんからしてみればそんなのちっぽけな話で、ただ「元気にしていますよ」の一言だけでも、ゆかりさんはきっと大喜びしてくれただろうに。それさえ何故かできない自分がいた。

そして、今日こそはメールしようと思ったその日、ゆかりさんから1通のメールが届いた。
そのメールには、パーマカルチャーの講演とアフリカンミュージックのツアー(ゆかりさんはダンサーとしてチームに所属)で8月中旬~9月初旬まで来日して、千葉を皮切りに、南は九州まで日本各地を周ると書いてあった。

なんとも絶妙なタイミング。運命的なものを感じて、速攻でお返事を書いて、最近あったこと、感じていたことをただただ書きなぐって、鴨川で開催される講演に参加することを伝えた。出発直前で忙しいと思ったから返事など期待せずに。なのに、すぐに返事がきた。

相変わらず、語りかけるような優しいメールの文面だった。
「会えるのを楽しみにしていますね」と。

そして再会の日。

8月25日火曜日。鴨川の大山千枚田の棚田倶楽部。
3年ぶりの再会でかなりドキドキしていた。

少し遅れて会場に着いたため講演はすでに始まっていて、私はそっと後ろの方の席に座った。会場は満席の30人ぐらい。ゆかりさんはすぐに気がついてくれて、満面の笑みをくれた。その笑顔が私のためにしてくれたものだと思うと、ものすごくうれしくて、くすぐったかった。そしていままで自分が連絡をしていなかったことを逆に恥ずかしく思った。

その後、ゆかりさんは、聴く者を飽きさせない、ユーモアたっぷりのテンポのよいトークをして、あっという間に3時間が過ぎた。講演が終わっても、ゆかりさんのところにはたくさんの人が質問をしようと列をなし、彼らもまた私が3年前に受けたような衝撃と感動を、彼女の人柄、エネルギーから感じているようだった。


3年ぶりの再会を喜んで。左の男の子は、最近オーストラリアから帰国したというシゲくん。一宮に土地を買って、ゆかりさんのような暮らしをデザインするのが夢だという!その隣が、ゆかりさん、今回のツアーに同行している次男ジュジュ(大きくなったな~)、とわたし。

たくさん人がいて、ゆかりさんも忙しそうで、そんなにたくさんは話せなかった。話したいことはいっぱいあったけど、言葉にしなくても、きっとゆかりさんは私をみて、いろいろわかってくれたんだと思う。それに、またすぐに会える気がして、もう少し成長した自分になって、いっぱい話しに行こう、と前向きに思った。

でも、それがゆかりさんに会えた最後の日になってしまった。

8月30日(土曜日)。

私が出会ってからわずか5日後のこと。
講演中にゆかりさんが突然倒れて、病院に運ばれたが、そのまま息を引き取ってしまった。

ゆかりさんが亡くなった。

そのことを知ったのは、日曜の朝だった。
最初は、本気で冗談だと思った。
だって、数日前まであんなに元気だった人が突然いなくなるなんて。

意味がわからなかった。
まったく現実味がなかった。
だから、悲しい、というより、信じられないという想いが強かった。
夢なんじゃないかと。

夢であってほしかった。
でも、夢じゃなかった。

ゆかりさんは逝ってしまった。
私にとって肉親以外で大切な人を亡くしたのはこれが初めてだった。
その事実と自分の感情とどう向き合っていいのかわからなかった。

もうあの笑顔に会いたくても会えない。
もうあの声が聞きたくても聞こえない。

そう思うと、切なくて、たまらなくて、ずいぶん泣いた。

もっといっぱい時間を過ごしたかったのに。
もっといっぱい話したかったのに。

ゆかりさんのことを想えば想うほど、ゆかりさんの存在が心の深いところに大きくあることに改めて気がついて、どうしようもなく悲しくなった。

でもゆかりさんは、もういない。
そんなに簡単にいなくなっちゃうなんて、信じられなかった。

そのショッキングな事実を受け入れられず、ぼーっとしたまま、その翌日からgreenz オフサイトミーティングで森の家にgreenz メンバーが全員集合した。会社の将来のこと、ビジネス戦略のこと、営業メニューのことを話し合う大事なミーティングを前々から準備していたけど、突然のゆかりさんとの別れで頭が混乱していたのか、準備していたプレゼンなどできるわけもなく、私は、それまで溜めていた想いや、自分がなぜここにいるのか、なぜこれをしているのか、その原点を思い出し、そこにゆかりさんという素晴らしい人との出会いがあったこと、その人が突然いなくなってしまった寂しさと、自分の目標を失った不安を、一気にぶわーーっと話しだしてしまった。そして、人目もはばからず、思いっきり大泣きしてしまった。人前であんなにワンワンないたのは、お爺ちゃんが亡くなった時以来だ。(いまから考えるとほんとうに恥ずかしくて、大人げなくて、自分勝手だったなと思うが、その時はもうなにがなんだか。greenz のみんな、スミマセン)

とっても不謹慎だけど、ゆかりさんとこうして日本で再会できたことにはきっと意味があって、彷徨っていた自分自身の内面、自分の原点を思い出すきっかけをくれたような気がする。きっと、ゆかりさんからの何かのメッセージだったと思いたい。

ゆかりさんの突然の死を通して、自分に欠けていたもの、忘れかけていた大切な感覚、自分のいまをつくっている原点を思い出すことができた。そして、これから、いま向き合うべきことは、きっと、「いまを精一杯生きる」ということなんじゃないかと思った。

いつもゆかりさんには助けられてばっかりだ。なにひとつ、恩返しができていない。だから、せめて、自分と向き合って、自分の感覚を研ぎ澄まして、ぶれない芯の強さと豊かな感性をもって、ゆかりさんに恥ずかしくないように、いまを一生懸命生きる姿を見せていきたい。

というのも、私は、昔から何事も計画するのが好きで、ゴールや目標を設定して、そのビジョンを目指してがむしゃらに突き進むタイプの人間だ。ゴールがないとそこに向かう道も見えなくて不安だから、どこに自分の人生が向かっているのか把握しておきたいからだ。

でも、ゴールなんて時には必要ないのかもしれない。
人生に永遠なんてないんだから。

必ず明日が来るとは限らないのに、見えない未来のことをいまから心配して、今を楽しく、精一杯生きられなくて、未来はやってくるんだろうか?

人生は、予想できないから楽しかったりもする。
全てが計画通りにいったら、それはそれでつまらない。

先に見える目標は大事だけど、遠くを見過ぎて足元が見えなくなって、生き急いで本当に大切なモノや今を生きる感覚を忘れちゃってしていいんだろうか?

生きるってなんだろう。
今を生きるってどういうことだろう。
本当に大切なモノってなんだろう。
本当に必要なモノってなんだろう。
本当の幸せってなんだろう。

そんなことを考えさせられた。

ゆかりさんがいなくなって、いまを生きることの意味、生きることの幸せを考えさせられた。

自分は、いま何がしたくて、ここにいるんだろう。
自分は、何をすべきなんだろう。
自分には、何ができるんだろう。
自分は、どこにむかっているんだろう。

幸せは

「未来」にあるものじゃなくて
追い求めるゴールじゃなくて
「いま」あるもの
「いま」を生きてその道のりを楽しむことを

幸せというのかもしれない。

ゆかりさん、

もう会えないなんてさみしすぎるよ。
もっといっぱい話したいことあったのに。
やりたいことまだいっぱいあっただろうに。
くやしいね。

でもきっとゆかりさんは、いつも、いまを一生懸命に生きていて、最高に幸せそうだったし、
自分でも「最高に幸せよ」ってよく言っていたよね。

わたしも、ゆかりさんを見習って頑張るから
見守っていてね。

ありがとう。