地産地消が叫ばれるようになって久しいけど、
周りでは、もっぱら、「友産友消」

友達がつくったものを、友達同志で頂く。
幸せのお裾分けってやつですね。

ご近所さんの家の敷地内には、ありとあらゆる果樹がたくさん!!!
「採っても採ってもまだまだあるから助けてー!」
という要望をうけて、みんなでフルーツ狩り!

いすみ市は、キウイが名物。

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みてください。この大量のキウイ!

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他には、みかんもいっぱい!!

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5人で収穫した量。
当分キウイは買わなくてすみそう。。

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この冬は、薪はかわずに、地元の「いすみ薪ネットワーク」に入って
山林の間伐や手入れをしながら薪をゲットするという
活動も開始しようと思うので、これもエネルギーの友産友消。

森のご近所さんからもらった廃材で、工具片手に、
DIYで蒔き置き場もつくってみたー!

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ありあわせの廃材をギコギコきって、ネジでとめて、
最後にトタンで屋根をつくって、
出来上がりー。制作費はネジ代500円ぐらい、
4時間ぐらい?でできましたー。DIYって楽しいーーー!

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自然の中で暮らしていて感じることは、
自然にはムリ、ムダがないということ。

あるがまままに、そこに、いま、存在していて
常に、軽やかかに、しなやかに、移り変わり行く。
それでいい。それが、いい。

ほんとうは、人間もずっとそうやって自然のリズムに
あわせて暮らしていたはずなのに、
どんどん経済が発展して、モノが増えて、
それをうまくまわすために巨大なシステムができあがって、
人間はそのシステムの中で「生かされている」ようになってしまった。

お金を払えば、ほぼ、いつでも、どこでも、何でも、手に入る時代。
でも、お金では手に入れられないモノは、いつの時代だってある。

例えば、自然環境。
例えば、時間。

自然環境がつくる価値を経済的指標に置き換える研究や
学問、技術革新も確かに必要だとは思うけど、
自然はあるがままだから、いいのです。

時間も万人に公平に、一日は24時間、一年は365日のはず。

なのに、ミヒャエルエンデの「モモ」で語られているように、
多くの人は、「将来のために」とか、「あれもこれも」と
思って、常に時間に追われています。

だから、ムリ、ムダをできるだけ省こうとする。
それを否定するつもりはないけど、少しぐらいムダな時間もあっていいはずです。

日本に10年以上暮らしていて、最近オーストラリアに帰国したオージーの友人が
こんなことを言ってました。

「日本にいると、つねに何かをしていないといけない気がする。
でも、オーストラリアにいると、何かをしなきゃいけない、と思わなくなる。
何もしなくていい、何もしない時間を持つ事、持てる事が、
実は、本当の幸せで、最高の贅沢」

あまりにのんびりしているオージーに言われても
説得力がない気もしますが(笑)、でも確かに一理あります。

何もしない時間って、なんだか勇気がいることのような気さえしてしまう。
堕落的な、否定的な感じがしなくもないのは、
肥大化した無機質なシステムの中で生かされている
所以に染み付いた思考癖かもしれない。

だから、自然の中に暮らしのベースを置いて、
いらないモノを潔く捨てる勇気をもって
本質的なモノを見抜く目をもって、
あるがままを受け入れたい。

本能と直感を信じて、自分の足で立ち、手で
いきていくチカラを育てていく
必要が、いまこそあるように思う。

とはいえ、自分1人ではいきていけない世の中だから
そんな時は、家族や友達、地域のコミュニティと
分かち合いながら、一緒に暮らしをつくっていけばいい。

都会にいると、どうしても、いろんなコトやモノ、人との
距離があって、自分で何かを手作りすること、
仕組みをつくることはなかなか難しい。

でも、その仕組みから一旦解放されると、
どんなに自由で、ココロが軽やかになることか!
森暮らしも3年目の冬、そんなことを感じています。

長くなりましたが、最後に。

震災後、日本の裏側パタゴニアに移住して
暮らし始めた、中渓宏一さんのこちらの記事は
まさに、そんな窮屈から解放された暮らしを描いています。
彼の暮らしを不便とみるか、自由と見るか。

私には、希望がみえます。

地球のどこにいても、生きていけるというタフさを求めて

私も、ちょっとずつそんな暮らしに近づいていると思うと
少しは成長したかなと思います。