オーストラリア移住から6年半。

ついに、待ち侘びた、この日がやってきました。

学生ビザ3年。卒業生ビザ1年半。パートナービザ2年半を経て、

永住権がやっと、おりましたーーー!!

学費やビザ代、エージェント代,、保険料などなど、支払った合計金額は、400万円以上。

ここまでの道のりは、決して平坦なものではなかったけども、結果的に、愛する人と一緒にいられて、永住権も降りて、この国にずっと住めることになって、ホーーーんとに!よかった。

日本での安定した生活と住み慣れた町、家族や友達に別れを告げて、37歳での海外移住は、思えば大胆な決断だったかもしれない。

でもね、後悔をしたことも、後ろを振り返ったことも一度もなかった。

2015年10月、日本を出る日に引いたカードに書かれていた言葉。

日本での出会いや経験を通して得た自信が自分を強くしてくれた。過去の出来事は、すべていまにつながっていると思えるから、遠回りと思える道のりでも、決して無駄じゃなかった。

日本を離れて、新しい一歩を踏み出したからこそ、いまの巡り合い、出会いがあった。

<2015年。私のオーストラリアいってらっしゃい走行会に集まってくれた仲間たち。千葉に移住してから6年の間に出会った人たちばかり>

別れがあって、出会いがある。出会いがあって、別れがある。そんな繰り返しだね、人生は。

そんなわけで、永住権獲得という嬉しいお知らせとともに、44歳の誕生日を迎えました。

もう自分が40代半ばだなんて、全く現実味がありませんが、ただ、カラダだけは正直で、最近膝が痛くて痛くて、右膝をランナーズニー(別にマラソンとかしてないのに)と診断され、階段の上り下りがスムーズにできなかったり、屈伸ができなかったりと、痛みを感じております。。。なんだか情けないw。

まあ、でも誕生日はいつもパーティーでお祝いしたいタイプの人間なので、永住権ゲットともに、日頃支えてくれている友人たちに感謝の意を込めてビーチピクニックを予定していたのですが、

5月3日正午、レモン君の愛するお母さん、ローズマリーが突然亡くなってしまいました。

 

 

84歳と高齢でリウマチや関節炎を患っていて、肺炎から回復してからは呼吸器系も弱まっていたけど、数日前に誕生日祝いで電話をくれた時は、元気そうに、いつもの優しい声で話しをしていたほどだったのに。

それが、4月29日、なんらかの原因で気胸になり(肺の周りの空間である胸腔に空気が入り込んで起こる肺の潰れ。これにより、胸が痛くなり、呼吸が困難になります。)、そのまま緊急入院。応急処置でその晩は電話で元気に喋れる程度だったのに、翌朝には容体が急変。

その後、呼吸困難になったため、ICU病棟へ転送され、人工呼吸器に繋がれました。

レモン君とブリスベンにいるお兄さんも急遽シドニー入りし、彼女の手を握りながら、毎日毎日話しかけていたそうです。病院のベッドの横には、彼女の好きな花を飾り、お香をたき、キャンドルを灯して。

それでも、肺に空いた穴が自然に閉じる見込みはなく、高齢のため手術という選択肢はもはやありませんでした。

「もしそんな状況になったら、自分を逝かせてほしい」という彼女の生前の意思を尊重して、お義母さんは、人工呼吸器や点滴などの生命維持装置をはずし、そのまま目覚めることもなく、静かに、安らかに眠ったまま、苦しむこともなく、その豊かな人生に幕を閉じました。

いつかは訪れるとわかっていた「死」。

でも、実際に、もうこの世に、その人がいない、という感覚は、絶望的で、泣いても泣いても悲しくて、寂しい気持ちが止まりません。

ローズマリーは、当たり前のことを、きちんと、ちゃんとする、心の広い人でした。

親戚や友人の誕生日をカレンダーにメモっては一度も忘れたことはなく、毎年きちんとバースデーカードを送るような人でした。

教師でもあった彼女は、教えることが大好きで、一説によるとオーストラリアの教育史上、22歳という最年少女性として校長先生に任命されたほど、彼女の教育論と教育方針は尊敬されていました。その教えは、もちろん子育てにも適用されていて、2人の息子は、心優しい男性に成長しました。

 

凛としていながらも、とってもお茶目なところもいっぱいあって、ケタケタ笑う彼女の声はまるで少女のようなピュアさがありました。

動物や自然が大好きで、よく詩や俳句を書いたり、仏教の教えも日々の生活に取り入れるほど、精神的にも豊かな人でした。

親は偉大、というけども、彼女のお葬式に参列して、改めて、彼女がどれだけ多くの人に愛され、慕われていたかを感じました。

こちらのお葬式(セレモニーとも言います)では、一般的に、親族による弔辞にはじまり、続いて家族、親族、友人などのスピーチが続き、故人の生い立ちから現在をまとめた写真のスライドショーの後、お別れ、となっています。

終わってから、みんなが「いいお葬式だったね」といっていて、不適切な感想かもしれないけど、彼女の人柄を慕うかのように、セレモニー中は、不思議とあたたかい愛に溢れたピースフルな空気が流れていました。

 

みんなに愛されていたローズマリー。

これからは、天国で、やっと一緒になれたジム(レモン君のお父さんは10年前に他界しています)と仲良く、わたしたちを見守っていてね。

いつか、またどこかで。RIP Rosemary chan

  

レモン君も、お母さんの突然の、早すぎるお別れに相当なショックを受けていて、見ている方もとっても辛いです。

お母さんをとってもとっても愛し、慕っていたレモン君。この悲しみを受けいれ、感情を整理し、前に進むにも精神的なストレスと長い時間がかかりそうですが、ゆっくりゆっくり自分のペースで自分の感情と向き合って行ってほしい。

お母さんが残した言葉に、

FIND  A WAY EVERY DAY. 

どんなに困難でも(それを乗り越える)道を必ず見つけよう。

人生は短い。辛い日も、楽しい日もある。だったら、毎日、希望を見出して、明るい未来を見て、自分らしく、後悔のないように生きたい。

そんなわけで、私もシドニーに2週間ほど行ってお葬式の準備や遺品の整理やらでストレスフル、心落ちつかない日々が続いていましたが、追い討ちをかけるように、1年半の間、ヘルパーとして介護していた友人女性も亡くなってしまいました。

彼女は、モートニューロン病(MND)という病に侵されていました。

最初の症状は指先の筋力低下である場合が多く、「左の指先がうまく使えないから」という不便から身の回りのお世話や主に料理を作ったりすることをしていました。その当時、彼女は、自分で運転もできたし、服も着られたし、自分のことはほぼ自分でできた感じでした。

MNDの発症原因は、いまのところはっきりとわかっていなく、治療法も対処療法で痛みを和らげることは少しできても、進行を止めることは難しいようです。

MNDは、筋肉が正常に機能するために不可欠な脊髄と神経細胞のうち、神経細胞が何らかの原因で進行性に変性します。
それによって筋肉に異常がないにも関わらず筋力の低下や萎縮、麻痺を引き起こすものです。

でも、感覚や脳の異常は全くなく、五感は衰えることなく、思考もはっきりしていているので、身体的に不自由があっても、精神的には健常者と全く変わりありません。

そのうち症状が進行すると、筋力低下は徐々に腕または脚から上向きに広がっていき、やがて、顔面、あご、のどの筋肉が侵され、しゃべることも、固形食を食べることも難しくなってきます。体重減少や異常な疲れも現れます。

最終的に呼吸を行う筋肉の力が低下して呼吸困難を引き起こし、呼吸ができずに死に至るケースが多いそうです。

診断から平均生存期間は、1−3年と言われています。

私は、ヘルパーとしての経験も知識も全くないど素人でしたが、ご縁があって、少しでも彼女の助けになればと思って介護をさせてもらい、光栄なことに、数少ないヘルパーとして彼女のお世話を最期まですることができました。

亡くなる4日前、最後に彼女の自宅に行ってお世話した時は、ベッドから起き上がるのもやっとで、しゃべることもままならず、自分の死がそう遠くないことを彼女はもう決めていて、お互い泣きながら手を握り締めあったのを今でもはっきりと覚えています。

自分の身体が日に日に弱り、痩せ細っていくという、見るに堪えられないであろうショックと実態。

舌が絡まって、言いたいこともうまく喋れない、という絶望感。

自分で服を着ることも、歯を磨くことも、お化粧することも、シャワーを浴びることも、食べることも、歩くことも、自由に、普通にできない、という喪失感。

誰かに頼らないと何もできない、生きていけない、という無力感。

どんなに不安で、どんなにもどかしてく、悲しくて、怖かったことだろう。

一緒にいて、心が折れそうになったことも何度もあって、精神的にもかなりタフな仕事だったたけど、私より何千倍も辛いのは彼女の方だったはず。

それでも、最期まで、彼女は気丈に、自分にも人にも厳しく、いつも気品があって、美しく生きていた。

最期は、苦しまずに死にたい、という彼女もまた尊厳死を生前から伝えていて、家族と友人に見守られながら、安らかに逝ってしまった。

最後の最後まで、潔く、凛々しく、生きた人だった。

いままで当たり前のようにいた人が、ある日突然この世からいなくなってしまう。

英語で言う、GRIEF。

誰かが亡くなった時に経験する喪失感の程度や頻度、質は、人それぞれ。

最初は、とにかくショックで信じられず、その現実を否定したがったり、受け入れるのに時間がかかり、でも、次第に、じわりじわりと悲しみが波のように押し寄せてくる。

そして、ふとした時に思い出しては、泣けてくる。

もっと話したいことがいっぱいあったのに。

もっと一緒に出かけたい場所がいっぱいあったのに。

でも、もうおしゃべりすることも、ハグすることも、手を握ることもできないんだ、というリアリティを突きつけられる。

そんな時に、友達に勧められた本があります。

THE YEAR OF MAGICAL THINKING BY JOAN DIDION 

ジョーン・ディディオン(1934-2021)によるTHE YEAR OF MAGICAL THINKING ” 魔法の思考の年(2005年)” は、著者の夫ジョン・グレゴリー・ダン(1932-2003)の死後の年の記述です。2005年10月に出版された『魔法の思考の年』は、すぐに喪に関する古典的な本として絶賛されました。2005年のノンフィクションナショナル・ブック・アワードを受賞し、全米書籍批評家協会賞とピューリッツァー賞の伝記または自伝賞のファイナリストを受賞しました。

著者は昨年亡くなっていますが、この本を再現したお芝居、GILLIAN MURRAYという女優さんのソロパフォーマンスを先日観に行ってきました。

1時間半、一人で本のセリフをほぼしゃべり切り、絶妙な間の取り方やちょっとした声のトーンの調整など、見事なアクトでした。

誰もが経験する「死」と「死別」。

残念ながら避けては通れない道で、そのための備えをしておくことも難しいけども、ありのままの感情を静かに内観し、泣きたい時に泣き、時には、ふっと身をひいて、遠くから客観的に俯瞰できるようにな心づもりでいたい。

 

死別を経験すると、改めて、生きること、生きていることの意味を強く考えさせられる。

そして、亡くなった人の生きた証を、生き様を尊敬せずにはいられない。

みんな、いろいろありながら、それでも毎日生きている。

彼女たちと交わしたたくさんの言葉たちは、いつまでも、あったかく私の心の中に残っている。

二人の女性たちの逞しい生き様は、私にたくさんの勇気を与えてくれた。

もう会えないのは寂しすぎるけど、私も、貴方たちに負けないように、逞しく生きていきたい。

人生は一度きりだから。

いままで本当にありがとう。